「整えることは修行だ」──“美の哲学”|三島由紀夫の言葉から学ぶ⛺️

先日、キャンプに行ってきました🍂
キャンプ道具を準備したり後片付けをすることは、
それは自分の心を整え、一種の美を追求するような趣味になってきた。
三島由紀夫の本で「だらしない人間に、美はない」という思想を通して、
“整える”ことの意味を現代の暮らしに見つめ直す。
キャンプは自然という環境で自分と向き合う時間がつくれる場所。
ある意味「遊び」ではなく「修行」に近い。
前日にザックを整える段階からすでに始まって、
すべてのギア⚙️が“シンデレラフィット”した瞬間、
気持ちがいい、、

このきっかけになったのは初期メンバーがウルトラライトにハマっていたから感染したのかな。
自分の場合は、軍幕やブッシュクラフト、防災系でしたが、コンパクトで軽量なウルトラライトの良い部分も少し取り入れています。
その整え方ひとつに、自分の生き方や好み、心の在り方がありますよね。

まさに雑念だらけ
──もしかしたら三島由紀夫の言う
「だらしない人間に、美はない」という思想と、これはまったく同じ構造をしているのかも知れない。
1. 「整える」ことからすべては始まる
キャンプの準備でザックを詰めるとき、
私はランダムに道具を並べて、そこから一つひとつどう配置するかに神経を使う。
無駄のないスタッキング、無理のない収納、、それが楽しくてずっと何時間でも考えていられる。
どうやって手を伸ばせば自然に取り出せる導線になるのだろうかとか、、
それが一瞬、うまく決まったとき私は満たされる。キャンプ道具から“美”を感じることも。
納得がいくまで考える。何度も何度も、、
ただの荷物をまとめているのではない。
美を整えているのだ。
三島由紀夫が言ったように、
「外の乱れは、内の乱れの鏡。」
ザックの外にある秩序と、内にある美しさこそ、自分の精神の映し鏡なのだ。

2. シンデレラフィットは「美の形而上学」
スタッキングが完璧にハマる瞬間、、
私は物質的な満足以上の“精神的な整合”を感じる。
それは、美が「形」を通して現れる瞬間だ。
三島は『太陽と鉄』の中でこう語っている。
「形こそ真実である。形なき精神は堕落する。」
つまり、整った形=整った心。
私にとってシンデレラフィットとは、
**“外的秩序によって、内的秩序を取り戻す行為”**そのものだ。

3. 他人のキャンプ道具は「人格の写し鏡」
私は他人のキャンプ道具や大工さんの大工道具を見ると、
その人の性格や実力がよくわかる。
道具の置き方、汚れの扱い方、ロープの張り方。ありとあらゆる所から振動のような、周波数のようなものが漂っている。
三島が「だらしない人間に、美はない」と言ったように、
そこには必ず“だらしない振動を発する”サインが現れる。
整えられた道具には静けさがあり、
乱れた道具には落ち着かない“気”が漂う。
人間の感情も同じ振動🫨がある
外見の秩序は、精神の在り方を語る。
それは彼が追求した“美と倫理の一致”でもある。

4. 掃除に美は宿る
様々の人が暮らすシェアハウスでも同じ、
掃除の仕方ひとつに、人の心の“整い方”が表れる。
モップを丁寧に動かす人もいれば、
表面だけをさっと拭いて終わる人もいる。

でもそこに優劣はなく、それぞれの“美”の段階があると思う。
たとえば、
黙々と水回りを磨く人の姿に“静の美”を感じることがある。1番汚れやすい場所だから。
また、誰かが率先して共有スペースを整える姿には、“行動の美”が宿る。特に廊下の雑巾掛け、、
掃除とは、部屋を清めるだけではなく、
人間関係を整える行為でもある。

そしてその一挙一動に、“その人らしい美”が滲み出る。見えないところこそ、その人の魅力がグッと上がっていく、
三島が言う「整えることは修行だ」という精神は、
まさにシェアハウスのような共同生活の中にも確かに生きている。
お掃除は自分の心の修行と捉えたら良い。
心もピカピカになります✨

5.「現代の修行道」
火を起こす手順、道具の配置、
モップの動きや洗剤の使い方──
どれも「整える」という一点でつながっている。
「掃除ではない。修行、、」
「一つの動作に、美を宿せ。」
整った行為には、乱れた心を正す力がある。
整えることを通して自分を磨く。

6. その美が、私たちの心を立て直す
キャンプの美しさも、掃除の美しさも、
結局は同じことを教えてくれる。
外の世界を整えるほど、内の心が凛としていく。
整えたザックも、磨き上げた床も、
どちらも“自分を映す鏡”なのだ。
その美が、君の心を立て直す。
今日は三島由紀夫とキャンプ、さらにシェアハウスをミックスした記事、
だから、少し噛み合わせが悪い、そんな振動がでてますよね、、的な記事になりました笑

