【憲法改悪シリーズ全5話・第4話】「“家族”という名の国家装置」— 個人より制度が優先される社会へ

第4回は「家族」という美しい言葉に潜む、国家による個人の統制というテーマに焦点を当てます。
第4回:
「“家族”という名の国家装置」— 個人より制度が優先される社会
「家族は、互いに助け合わなければならない。」
これが、自民党の憲法改正草案・第24条に書かれた一文です。
一見して、反対しづらい表現に見えます。
でも私は、ここに強い違和感を感じます。
■ なぜ“家族”を憲法に書く必要があるのか?
家族は、本来それぞれのかたちがあっていいもの。
血のつながりがなくても、心のつながりがあればそれは家族です。
でも、国家が「家族はこうでなければならない」と定義を始めた瞬間、
家族は“制度”に変わり、個人の自由がそこに組み込まれていきます。
■ 家族の“義務化”が意味すること
憲法改正草案では、
家族は「助け合うべき存在」として明記されます。
つまりこれは、「国は面倒を見ない。家族でなんとかしろ」という宣言でもある。
介護保険が削られる 生活保護の申請が通らなくなる 家族のいない人が「非国民」扱いされる
これらは決して空想ではありません。
■ 「自己責任社会」の完成
この家族条項が入れば、国は社会保障の責任から静かに手を引けます。
そしてすべてを“自己責任”と“家族責任”に置き換えることが可能になります。
結果として、
弱者ほど沈黙を強いられ、声をあげられなくなる社会ができてしまうのです。
■ 「家族」という美名に隠された罠
人は「家族」という言葉に弱い。
温かさや絆、愛情を想起させるから。
でも、国家がその言葉を使うとき、
それは時に**「国に従順な単位を育てるための装置」**になる。
それはまるで、かつての戦前の“家制度”の復活のようでもあります。
■ 個人は、制度に従属してはならない
家族が大切なのは、それが自然に生まれる絆だからです。
義務でも命令でもない。
それぞれの暮らしと在り方に寄り添って、静かに育つもの。
国家がそこに手を突っ込んだ瞬間、
それはもう「絆」ではなく「服従」に変わります。

■ 私はこう考えます
家族は国家の道具ではない。
私たちの生き方やつながり方に、国が命令する権利はありません。
人のあたたかさは、命令で生まれるものではない。
それは、自由の中からしか育たない。
次回は最終回:
「憲法とは、国家を縛る鎖 — 立憲主義と国民主権のラストチャンス」