【村上春樹風シェアハウス】白いクジラの家で、僕らは静かに踊っている

白いクジラの家で、僕らは静かに踊っている
岡山の西のほうに、風に吹かれて白く光る家がある。
名前はSPOOKYS。
それはちょっとした冗談みたいな名前で、たぶん最初に聞いたら何かのお化け👻か、廃墟になった遊園地🎡の名前みたいに聞こえるかもしれない。
でも実際は、そんなに悪くない。むしろ、かなり気に入っている。
SPOOKYSは、僕が今暮らしているシェアハウスだ。
特別なことは何もない。ただ、空がやけに広くて、夜が少し長く感じられるだけだ。
朝になると、誰かが静かにコーヒーを淹れてくれて、夜には誰かがギターを弾きはじめる。

一日の中で、何か決定的なことが起きるわけじゃない。けれど、ここにいると、自分がちゃんと世界に存在している気がする。
僕がこの家に来たのは、たしか春の終わりだった。
東京の生活に疲れて、何かが決定的に壊れたような気がして、どこでもいいから遠くに行きたかった。
そしてここで、ユキに出会った。
彼女は十三歳だった。色がとても白くて、大人びた顔立ちをしていて、実年齢よりもずっと年上に見えた。
「あなた、村上春樹みたいな喋り方するね」と言われたのが最初の会話だった。
僕は少し笑って、「そうかもね」と返した。
ユキはSPOOKYSのオーナーの娘だ。
ときどきふらっと現れて、誰かのコーヒーを勝手に飲み、誰かの部屋の本を勝手に読んで、何も言わずに去っていく。
彼女には鍵もなければ部屋もない。でも、なぜかこの家のどの部屋よりも居場所を知っているようだった。
SPOOKYSは、いま空いている部屋が多い。
がらがらだと言ってもいい。
でもその静けさが、この家の空気にはちょうどよくなじんでいた。
まるで、やる気のない大家さんが、少ない人数で回しているような少し変わったシェアハウスだ。
ある晩、ユキがふいに言った。
「この家ってさ、黴びてるよね。ちょっとだけ。カビの匂い、わかる?」
彼女の言うとおりだった。
古い木の廃材から、じんわりとしみ出すような、湿った記憶の匂い。
「でも、それが悪い匂いってわけじゃないんだよ」とユキは続けた。
「むしろ、安心する匂い。消えかけてるものの匂い。」
彼女の存在自体がこの家の一部のように感じられた。
彼女が現れると空気が少し澄んで、彼女がいなくなると少しだけ湿度が増す。
それから少しして、ユキはいなくなった。

彼女がいた部屋には畳んだ毛布とスケッチブックが残されていた。
中には何も描かれていないが、鉛筆の跡だけがかすかに残っていた。
数日後、アキという女性がこの家にやってきた。
肩までの髪と白いシャツ。ギターを静かに弾くその姿は、何かを探しに来たようだった。
「チャイ、飲む?」
その香りが、なぜかユキを思い出させた。
でも、似ていなかった。似ていないからこそ、記憶が静かに揺れた。
アキは庭で瓶を見つけた。
中にはユキのメモがあった。
『あなたの気配は、白い糸のように静かだった。』
その夜、ユキが戻ってきた。

以前より少し背が伸び、目は前よりも静かだった。
「おかえり」と僕は言った。
「ただいま」と彼女は言った。
リビングで、ユキとアキは言葉を交わさず見つめ合った。
「会ったことあるの?」と僕は尋ねた。
「夢で見た気がする」とアキが言い、ユキが「わたしも」と微笑んだ。
その晩、三人でスープを囲み、雨音を聞いた。
「ユキはどこにいたの?」
「ちょっと別の夢を見てた。でも、その夢には出口がなかったの」
「わたしは、ここの夢に住んでるのかも」とアキが言った。
そして、ある日。
SPOOKYSの奥に見たことのない扉が現れた。

銀の取っ手に、深い森のような匂い。
ユキが迷いなくその扉を開けると、暗い中にピアノの音が響いていた。
「ここから先は、まだ物語になっていない場所」
ユキがそう言った。
僕たちは、その中へと足を踏み入れた。
夢なのか現実なのか、もはや境界はなかった。
ただひとつ確かなことは、
この白いクジラの家が、静かに呼吸していたことだった。
そしてその呼吸に合わせるように、
今日も僕らは、静かに踊っていた。
